Statement-日本語

Statement


私は「人が人の姿をうつすことへの欲求・欲望」に関心をもっており、作品をつくる動機となっています。
この「人の姿」とは、記憶を元に心に思い浮かべる顔や姿や、実際には存在していないにもかかわらず人の想像の中に在る姿のことを指しています。つまりここで私の考える「人の姿をうつすこと」とは、表面的な姿や形ではなく、人がもっている想像、引いてはその想像を生み出す欲求や欲望から生まれるものです。
たとえば、それは身近な家族や友人恋人の姿を痕跡として留める為に、その人の影の輪郭をなぞることや、婚姻関係にある男女がその関係を表し、互いの姿を残すために描かれた肖像画、あるいは、亡くなった人の姿を留める為に、亡骸を包む布にうつる体液の染みを亡くなった人の姿・痕跡とすることや、その痕跡を残し続ける為に、元の姿よりかけ離れたとしても、繰り返し、別の媒体へうつし続ける行為など、例として挙げることができます。
  これらの関心から、染色技法による絵画、鏡の中の映り込みや、光の粒子によって投影された映像や写真の反射をもちいたインスタレーションや、ガラス板を使用したゼラチンシルバープリントを制作しています。

染色によってうつすモチーフは、プシケが手にしている弦の緩んだ弓や、既にその場にいない恋人の影の輪郭など、不完全性や不能性が含まれています。これらの対象はそれぞれ意味をもちながらも、それ自体は機能を成さないもの、或は不能とわかっていながら、うつさざるを得ない動機を孕んでいます。

2020年8月

Sが若くして亡くなった。
そのことを知ったのは、私がSの父親であるIと
電話で近況の話をしていた時だった。
突然の話で、私の聞き間違えのようでもあり、一瞬思考が止まった。
その告げられた事に焦点が合わなかった。

私は戸惑いながらその事を受け入れるために、
いつ亡くなったのか、その原因を尋ねた。
しかしI自身も、数日前に人を介して知ったようで、詳しいことはわからなかった。
ただこれまでの経緯を通して、想像するよりほかなかった。

この時Iは、息子であるSについて、
「あの子はパンドラの箱を開けたようで、幾つも禍を被って
それにのみ込まれてしまった」
そして、私に対して
「あんたは、そんな風になってないか?」
と、言葉にした。

Iが、Sが亡くなるまでの状況を
「パンドラの箱」と喩えたことは、思いもよらないことで
そしてこの「パンドラの箱」という言葉が、何故か妙に引っかかった。

この時、Iが「パンドラの箱」と喩えたのは、一般的に知られているように、パンドラの箱よりもたらされた「様々な禍」のことを指し示していただろう。
一方、ギリシャ神話では、パンドラが携えた大甕を開けたことにより、大甕よりあらゆる禍が吹き出し、それにより地上には禍がもたらされ、それらの禍を吹き出した大甕の縁には、唯一「希望(予兆)」が残っていたと伝えられている。

図らずも、Iが「パンドラ」について言葉にしたことによって、私は、ギリシャ神話において、パンドラの大甕が開かれたことにより、禍がもたらされただけでなく、大甕(箱)の中には希望あるいは予兆が残っていたとされる結末を、あらためて知る事となった。
パンドラの大甕に残ったものが、希望(予兆)であったという事に触れた時、それが甕に残されたことが最善であるかどうか、様々な解釈が可能ではあるが、私はこの物語にある種の「救い」のようなものを感じざるを得なかった。
(ギリシャ神話の内容については諸説ある為、甕に残されたものについて、解釈の違いや誤謬も含めた上で話を進める。)

それと共に、幾つも問いが頭に過ぎった。
既にいなくなったSは、本当に禍いしか見なかったのか。
どのような状況であったか、今となっては想像するより外ないのだが、
できることならば、目の前に、そこに希望を見ていてほしい
幸せでいて欲しいと、ただそう願うしかない。

私はそうした希望を見出だすことの動因として、作品をつくることを捉えている。

2021年2月